第3回「現代文学とザーウミ」

『新潮』(2018年4月号)にドン・デリーロ『痒み』(都甲幸治訳)という短編が掲載されました。

 訳者によれば、初出は『ニューヨーカー』2017年8月7日・14日合併号だそうですので、かなり新しい小説です。ドン・デリーロは現代アメリカ文学を代表する作家で、映画化もされた長編小説『コズモポリス』や短編集『天使エスメラルダ』など、多くの小説を日本語で読むことができます。

 短編『痒み』について都甲氏はこう述べています。

主人公は離婚したばかりの四〇代男性で、おそらく深く傷ついている。けれども自分でもそれを認められない。代わりに起こるのが、確実さへの執着、特に数字への関心と、途切れることのない体の痒みだ。
 (…)文中に出て来る「ザーウミ」は一九一〇年代初頭に詩人のクルチョーヌイフが作ったロシア未来派の用語で、「超意味言語」と訳される。アルファベットの恣意的な組み合わせでできており、正しい発音も意味もない。フレーブニコフなどが好んで用いた。
(マーカーは引用者)

 ここで言われているように、ドン・デリーロの小説『痒み』には「ザーウミ」という言葉が登場します。私が研究しているハルムスはザーウミ詩を多く残しましたので、非常に興味深くこの小説を読むことができました。

■小便

『痒み』のなかで「ザーウミ」という言葉が使用されるのは、序盤と最終盤の2回です(単語そのものが出てくる回数は5回)。いずれの場合もこの単語は太字で強調されており、そのことだけでも、この言葉が小説にとって重要な意味をもっているのではないかと推量するには十分でしょう。実際、それは非常に重要な、かつユニークな意味合いをもたされているように思います。

 直接的には、ザーウミは「便器の中の水に小便が当たるとき」に聞こえる「言葉みたいな音」を指しています。そして潜在的には、それは「痒み」という現象と照応しています。まず、ザーウミと小便の音との直接的な関係について見てみましょう。

 主人公の友人ジョエルは自分の小便が便器に当たる音に敏感になっており、それが言葉を発しているように感じています。そしてその言葉を「ザーウミ」と名づけます。

「君は詩人だね。どこにでも言葉を聞き取る」
ザーウミさ。意味を超えた詩だ。百年前にあった。形と音を備えた言葉」
「便器の中のピチャっという小さな音」
ザーウミ
「意味を超えた」

『痒み』のなかでザーウミは「便器の中のピチャっという小さな音」と同一視されています。それは意味内容を決して理解しえない短い音です。この点において、それはかつてクルチョーヌィフの用いていたザーウミと形式上似ているということができるように思います。彼の有名なザーウミ「ドゥイール ブール シシュィール」もまた意味を確定しえない音の羅列だからです。

 ところが、ザーウミはもう一つ別のレベルでもこの小説と関係しています。それこそまさに「痒み」に他なりません。

■痒み

 主人公が体に痒みを感じはじめたのは、おそらく彼が離婚するより少し前のことです。痒みの原因は明らかにされません。何人もの医者にかかり、症状を和らげようとしますが、うまく行きません。彼は痒みを「何かの象徴じゃないか」とさえ考えますが、それが何かは分かりません。つまり、痒みはその理由も意義も突きとめることのできない分析不能な異物として提示されているのです。

 この点において、痒みはザーウミが本来的にもっている理解不能という性質と一致します

 小説の冒頭近くで、主人公は痒みのことを「遠くの、分析不能な物質からもたらされたデータ」だと思いはじめます。それは一種の「感覚データ」で、外界からやって来たものだと、彼は「半ばSF」のような設定を考案して、自分を慰めているわけです。ここで痒みが「分析不能な物質からもたらされたデータ」と関連づけられているのは興味深いことです。なぜなら、いま述べたように、分析不能性=理解不能性はザーウミの性質の一つでもあるからです。

 このように、痒みという現象はザーウミとリンクしているように見えます。しかしながら、そう断定するには根拠が弱く(何しろ「理解不能」という一点しか共通点がないのですから)、両者の関係は微妙にはぐらかされているようにも見えます。こうした曖昧な印象はこの小説の叙述形式そのものによって強められているのではないかと私は考えました。

『痒み』はかなり短い断章群によって構成されており、そのことによって、おそらくはもっと統一性を有していたはずの物語の均整が崩れています。もしかすると、一度完成した小説を裁断し、出来事をシャッフルしてから、いまの形で提示しているのかもしれません。冒頭に「でも誰も来なかったから、彼はしばらく壁を見ていた」という逆接で始まる一文が置かれていることは、この小説の形式面での特徴を端的に示しているといえます。

 ほとんどの場合、ある断章と次の断章とのつながりは有機的というよりは偶然的で、単発的に映ります。この叙述形式ゆえに、痒みとザーウミとの関係が突き詰められることはなく、したがってその関係もまた、有機的というより偶然的であるという印象がどうしても生じてしまいます。もっとも、両者の関係性をこうしてはぐらかすこと、すなわち決定不能の状態に宙吊りにすることこそ、ザーウミの性質に適っているともいえるでしょう。便器に当たる小便の音に意味を聞き取ろうとしつづける果てしない行為がまさに、そうであるように。

■正確の魔

 主人公の感じる痒みは彼が数字に強い執着をもっていることと対置されていると考えられます。痒みがその原因と意義の不明性によって際立っているとすれば、彼が神経質なほど注意深く観察する事物の数や人の動作の正確性にそれは対立するからです。

 ただし、痒みもこの執着もどちらも無意識的かつ不随意的な現象/行動であるという点において、両者は踵を接しています。フロイトに影響を受けたクルチョーヌィフにとって、ザーウミは無意識の領域と深く関係していたため、小説の主人公の強迫観念的な正確の魔もやはり、ザーウミとゆるやかに曖昧に連帯していると見ることができるかもしれません。

 こうして、『痒み』は不明性と正確性、ザーウミと理性的言語、分割と統一、無意味と意味、どちらにも着地せず、もどかしくも超然と浮遊しつづけています。

記事全体への注
 ロシア・アヴァンギャルドの専門家のあいだでは、ザーウミは細分化されています。最もオーソドックスな区別は、「クルチョーヌィフのザーウミ」と「フレーブニコフのザーウミ」に二分することです。

 おそらくドン・デリーロはこのうち前者のザーウミを、中でも最初期のクルチョーヌィフのザーウミを念頭に置いていると思われます。

(2018年3月19日)
(同年4月20日改)