第160回芥川賞

まるで小説を書くように――町屋良平『1R1分34秒』
(バベルの西――上田岳大『ニムロッド』)

ぼくは今回、いわゆる「書評」を書きません。というのも、芥川賞受賞者の一人・町屋良平は友人のため、中立的な評価を下すことができないように思いますし、また、傍からもそう思われるでしょうから。

ではこの文章は何なのかといえば、ごく個人的な感想文です(「ぼく」という一人称を使うのもこのためです)。町屋さんとの会話、遊び、旅行、読書会、飲み会などの「ゆがんだ」レンズを通して見た『1R1分34秒』の眺めですから、偏った思いこみに満ちています。ぼく以外の人には聞きえないものを聞き、読みえないものを読む、異端の、秘教的、狂想的、『青白い炎』のキンボート的な、ダメな読書感想文です。

そんなプライベートなものをここに公開するのは、友人が芥川賞を受賞するというのは、やはり特別なことだと思うからです。何よりも彼には祝辞となり、ぼくにとっては記録となることを期待しています。それ以外のすべての人にとっても、芥川賞受賞作に対する珍しい感想文としてお読みいただけたら幸いです。


前置きが長くなってしまいましたが、ついでに(というのも申し訳ありませんが)、もう一人の受賞者・上田岳大の『ニムロッド』についてほんの少し。

実をいうと、ぼくにはこの小説がまったく掴めませんでした。すべて明快に書かれているように見えますが、より深く読むべく分け入ろうとしても、一歩も前に進めないのです。荷室や中本など、元ネタが明かされている登場人物の名前に着目して読もうとすると、田久保紀子で躓きます。作中で示唆されているように、ビットコインと小説との類似に着目しようとしても、両者の性質の基本的な違い(たとえば前者は実在していないものの、他者によって存在しているとみなされる。後者は実在しているものの、他者がいなければ存在に気づかれない)に阻まれます。

『ニムロッド』で構築されている対応関係はいずれもどうやら非対称のようなのです。異物の混じった対応関係と言ってもいいかもしれません。意味もなく零れるまるでザーウミのような左目の涙が整然とした対称性を洗い流している。そんな気もしました。

しかしながら、今回は町屋良平『1R1分34秒』について書くつもりですから、『ニムロッド』の話はこのへんで終わりにしておきます。もし次に機会があれば、「バベルの西」というタイトルで書くかもしれません…。


もう何年も前のことになりますが、ぼくはよく町屋さんと人と人との関係性について話をしていました。世の中には悪い人や善い人がいるというわけではなく、人との関係性の中で善くも悪くも変わるはず、と。このとき、ぼくの頭には『千と千尋の神隠し』が浮かんでいました。

カオナシは湯屋にいるから凶暴なのであって、銭婆のそばでは大人しく暮らすことができます。およそ人間というのはカオナシのようなもので、人にはそれぞれ相応しい場所があるのではないか――。大学から遠ざかっていた当時のぼくは日々そんなことを考えていましたので、町屋さん(その頃はまだ「町屋さん」ではありませんでしたが)との会話にも熱が入ったように記憶しています。

ぼくはジブリ作品が好きで、中でも『耳をすませば』が一番です。この映画も実は人と人との関係性の物語です。というのは、「出会いの奇跡」を描いているからです。雫は聖司と出会うことで、よりよく生きようと決意します。人は出会いによって変わりうる。それをこれほど美しく、みずみずしく、たわわに描いた映画をほかに知りません。

ここまで読まれた方はすでにお気づきかもしれませんが、『1R1分34秒』もやはり人と人との関係性の物語です。語り手が対戦相手と勝手に友情を取り結ぼうとするという特異な点でもそうですが、彼がウメキチとの出会いによって変化してゆく点で、まさにそうなのです。たとえば語り手のように考えすぎることは、ボクサーにとって容易に欠点とみなされ得ますが、ウメキチはそれを長所と判断します。

考えて。考えるのはおまえの欠点じゃない。長所なんだ。それをおれが教えてやるよ。

人の性質は人によって短所にも長所にも映ります。また、短所だと思っていたものを長所だと思いなおしもするし、その結果、実際にその性質自体が自分の思い描く方向性にそって変化したりもします。

『1R1分34秒』は語り手とウメキチのまさしく「出会いの奇跡」の物語です。小説の中で語り手が最初に対戦したボクサーの名前は、いじみじくも「青志くん」(『耳をすませば』の聖司くんと同訓)というのでした。

町屋さんとはときどき読書会をしていました。今も回数こそ少なくなりましたが、ごくたまにします。友人らと事前に決めた課題図書の感想を言い合うだけの、他愛のない会です。あるとき、オールビー『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』を読んだことがありました。夫婦がひたすら口喧嘩をしているという異様な戯曲で、大きなドラマは起こりません。しかし、現実には生まれなかった想像上の子どもというモチーフが戯曲を貫いているため、ある程度の統一された印象を読書から得ることができます。

町屋さん(くり返しますが、当時彼は「町屋さん」ではありませんでした)の小説に感じられないのは、この統一された印象だとぼくは思いました。その点について彼と話をしました。子どもは生まれなかったという意味で空虚ではあるけれども、それでもモチーフとして一貫して現れていることで、戯曲を読む手掛かりになってくれているのではないか、と。

その頃の彼の小説は茫洋としており、一読しただけでは何が起きていたのかを説明することさえ難しい場合がありました。ストーリーがないわけではないし、錯綜しているわけでもないのです。それなのに、覚えられない。文章は独特で、篤実で、真新しいのに、せっかくのその良さがストーリーの曖昧さに紛れて見えない。そんな印象でした。

きっちりしたストーリーを構築したくないという彼の意志は知っていましたし、自分なりに理解もしていたつもりです。だからこそ、『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』を読んで、全編を通底する非在のモチーフがぼくにはすばらしいアイデアに思えたのです。

『1R1分34秒』には、「窓を押す勢いで緑をたたえている枝葉」をもつ「立派な木」のことが何度も書かれています。この木はいわば、生まれなかった子どもだと、ぼくは思いました。

(…)木にはぼくの記憶が宿っていて、デビュー戦のころのぼくの明日へのつよい希望が、ライセンスをとったころのぼくの濃密なよろこびの感情が、記憶されていた。当時の記憶と、生長しつづけながらいつもそこにいた木とのあいだで、友情が結ばれていた。木は(…)ぼくがいまのぼくでないぼくを生きている可能性を、語っていた。この部屋でボクサーにならなかったぼくも暮らしている、初戦に敗けてボクサーをやめちゃったぼくも暮らしている、勝ちつづけて或いは引越しここにいないぼくも暮らしている、そのように木とぼくとこの部屋のあいだで、あらゆる並行世界がこのくるしい情緒のなかで、シャキッとした冷徹な想像力において、たしかに在るものとして、ぼくにはわかった。

眼前に在るものとしては存在していないけれども、可能性の中に存在している――そういう「存在」のありようを語りかけてくるモチーフがオールビーでは生まれなかった子どもで、町屋良平では窓外の木ではないでしょうか。

言うまでもないことですが、町屋さんがぼくとの会話を通じて小説の構想を練ったと主張したいわけではありません。彼が会話のすべてを記憶しているはずもなければ(そんな記憶師のような人間がいるでしょうか)、他の誰とも会わずに生活してきたはずもないからです。だから、最初に書いたように、これは「ぼく以外の人には聞きえないものを聞き、読みえないものを読む、異端の、秘教的、狂想的、『青白い炎』のキンボート的な、ダメな読書感想文」に過ぎないのです。

でも、もし彼がいままでの会話を小説に少しでも活かすことがあったとしたら、それは本当にうれしいことです。小説を書いている友人は他にもいますので、彼らが町屋良平のように著しい成果をあげることを期待しています(自分自身にも期待したいと思います)。

空に青を見る人もいれば、白を見る人も、夕暮れの香をかぐ人も、はるかな果てを想像する人もいます。何を受けとり、考えるかは、その人次第です。それは言葉という大きな集合から単語をひとつひとつ選び、組み合わせ、小説にする作業にも言えることでしょう。小説を書くようにして、あるいは空を感じるように、ぼくらは関係し合っているのだと思います。

(2019年2月16日)

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