第159回芥川賞

言葉、現実:町屋良平『しき』

町屋良平は私の友人でもあり、デビューする前から様々な小説を読ませてもらっていました。ただ、それだけにかえって私が現時点で細かく言及することには難しさを感じます。そこで、『青が破れる』が文藝賞を受賞した際に友人らで協力してまとめた書評集(非売品)から私の担当箇所を、特に『しき』にも通ずる箇所を抜粋したいと思います。

作中の無駄を削ぎおとされた言葉は、定型的な物の見方、条件反射的な考え方を徹底的に排除している。その「描写」の冴えは、常識に遮蔽されて見えていなかった現実を、ブロースフェルトの写真のように暴いてゆく。

ブロースフェルトとは、植物の細部を撮影することによって対象の異様な姿を捉え、その一方で植物と建築物との思いがけない類似を発見した20世紀初頭の写真家のことです。町屋氏の心理描写は誠実で篤実すぎるあまり、捏造された思考や定型的な感情に慣れてしまっている読者を少し戸惑わせかねない一方で、真新しいみずみずしい感覚に彼らを浸しもします。その点において、ブロースフェルトの植物写真と似ています。

こうした特徴は『青が破れる』のみならず『しき』にも当てはまるといえるでしょう。ただし、『しき』における言葉は対象を極めて誠実に写生するだけにとどまらず、それ自体(つまり言葉自体)が新たな対象として自生する動きを見せていることも注目に値します。その都度新たな現実として生まれ変わりつづけてゆく眼前の現実をできるかぎり正確に捉えようとする以上、捉える側の言葉もまた慣例から逃れつづけながら新たに変容しつづけてゆかざるをえなくなることは、ごく自然な成りゆきといえます。

今後も言葉と現実の相互貫入の行方を見守ってゆきたいと思います。

コミュ力という暴力:高橋弘希『送り火』

高橋弘希『送り火』は圧倒的な筆力で書かれた小説であり、彼のその他のいくつかの小説がすでに芥川賞候補に選出されていることを勘案しても、授賞に値すると思います。

個人的には、ライバルは『しき』ではなく、いや今回の候補作いずれでもなく、前回の芥川賞受賞作『百年泥』だと考えています。なぜなら、どちらもその小説全体を通して沈黙を、言葉になるより前のいわば言葉の胚を、不気味に照らしだしているからです。

百年泥』は饒舌といってもよい文体で奇怪な出来事を次々と語りだして止まりませんが、そこで語られている出来事というのは実はかつて言葉にならなかった様々な沈黙の(泥としての)噴出に他なりません。他方、『送り火』は古典的といってもよい律儀で正確無比な日本語でもって様々な対象を縷述してゆきますが、そうして描きだされた小説世界の奥にはやはり沈黙がうずくまっているように思います。

これほどぎっしりと細部が描きこまれた小説のなかにあって、ある重要な「何か」だけが不自然にぽっかりと抜けています。時にその空白は「何か」に関する、しかし「何か」では決してない別の言葉によって隠蔽されています。たとえば、小説の舞台となった土地ではある特定の単語を使用することがタブーとされ、代わりにそれは「ろくあし」と言い換えられています(小説のなかで明言はされませんが、おそらく「ろくあし」とは「蝗」のことでしょう)。その土地では「名前を口にすると、言葉が力を持ち、その蟲を呼び寄せる」とされているからです。また、ある場所では、「人さ作用する」言葉が「漂って」いると言い伝えられています。けれども、それがどのような言葉であるのかは詳らかにされず、「漂って」いる「言葉のお化け」の周りを人も言葉もめぐるだけで、そうして小説のなかには無言の空白が縁取られます。

つまり、この土地ではある種の言葉はタブーとされており、その言葉は別の言葉で糊塗されるか、ないしは単に忌避されているのです。あえて語らない、というこの精神性は語り手の目にした木槌に彫られた「豊かな沈黙」という刻印に端的に表れています。この刻印の意味について中学生の語り手が考えあぐねる箇所には書き手のたどたどしい作為を感じ、そこは残念ですが、良くも悪くも読者に印象を残す(まさに刻印する)という試みは成功していると言わねばなりません。

『送り火』において、沈黙が大黒柱のようにそれ抜きでは構造物を崩落させかねない核として小説に組みこまれていると考えれば(しかし沈黙は非在であることによって構造物を維持するから、言うなれば逆さまの、虚の、マイナスの大黒柱として組みこまれている)、陰惨な暴行事件へと雪崩れこんでゆく後半の破綻すれすれの急展開にも筋道が立つように思います。おそらく、この小説の途中で守るべき沈黙が侵犯されてしまったために、タブー視されていた言葉の「力」が顕わになり、それが物語の行方を災厄に転じさせたのではないでしょうか。侵犯したのは「上手く学級に溶け込むことができて」「優れた協調性」を備えた(要するにコミュニケーション能力に長けた)語り手・歩であり、侵犯されたのは「半笑いを浮かべるばかりで、口数が少ない」同級生・稔です。「稔」は「穀物が実る」ことを意味する漢字ですから、口数の少ない稔という存在は、先述した「豊かな沈黙」という刻印と性質が見事に照応しています。もっとも、この見事すぎる一致にもやはりごつごつした「作り物」の感触があからさまに感じられる点は気になりました。

百年泥』と同様、『送り火』も言葉以前の言葉=沈黙が秘めている「力」の途方もない饒舌を披歴した小説といえます。その意味で、『百年泥』が受賞した次の回の芥川賞が沈黙をふたたび照射した小説をどう評価するのか、関心があります。

女という沈黙:古谷田奈月『風下の朱』

古谷田奈月『風下の朱』からは、マザーグースの有名な詩の響きを聴きとることができます。

おんなのこって なんでできてる?
おんなのこって なんでできてる?
おさとうと スパイスと
ステキななにもかも
そんなもんで できてるよ

(『マザーグース』より)

大学に女子野球チームを作ろうとしながらも、学生を厳しく選別しようとするキャプテン・侑希美は、分け隔てなく誰でもチームに迎えようとする仲間を次のように評します。「あいつがなびいてるのは、(中略)馴れ合いに、甘えに、お砂糖に、スパイス、それから素敵なものいっぱい。そんなものが恋しいの」。これは明らかに『マザーグース』を連想させます。

いま、私は「女子野球チーム」と書きましたが、『風下の朱』には実はこの言葉は一度も登場しません。「女子」という言葉は非常に注意深く取りのけられています。そればかりか、『風下の朱』には男が一人も登場しません。男の存在感が希薄であるため、「女」という言葉をわざわざ用いる必要もないのでしょう。これは「女だけの世界」を描いた極めて特異な小説なのです。

しかし、ここで一歩立ち止って考えてみる必要があります。「野球チーム」という言葉がふつう「男子野球チーム」を意味しているように、日本語の多くの普通名詞は(他の多くの言語がそうであるように)男性の存在を前提としています。ですから、「女子野球チーム」を「野球チーム」とだけ書くことで、つまりは普通名詞に女性の存在を前提とさせることで、『風下の朱』は従来の日本語/日本人の通念をひっくり返そうと目論んでいるようにみえるのです。

もちろん、男女の立場を逆転させただけでは俗流フェミニズムと変わるところがありません。が、この小説は女性ゆえの苦悩や女性間の差異をきちんと描いているため(むしろそちらのほうに物語の比重は置かれます)、不毛な二者択一に陥る愚を犯していません。

『風下の朱』は日本語という言語そのものにあらかじめ内在している女という沈黙を逆手に取った小説です。ただ、同じように沈黙に着目している『百年泥』や『送り火』とは志向や傾向の異なる小説として私は読みました。これは非常に個人的な感覚かもしれませんが、女子だけの世界が描かれたアニメーション(特に深夜アニメ)をどうしても想起してしまい、それらと同一の系譜に並べてみたい欲求にかられるからです。あるいは、『マザーグース』の先の一節を引用しつつ、少年少女の性のゆらぎを繊細にアニメーションに透写した『放浪息子』(志村貴子・原作)と比較したいという欲求に――。

いずれにせよ、非常に優れた小説で、完成度の面からいえば今回の候補作のなかで随一の出来だと思います。また、端正な文体で書かれている点にも好感がもてました。

不謹慎小説:松尾スズキ『もう「はい」としか言えない』

松尾スズキ『もう「はい」としか言えない』は「不謹慎小説」と呼んでも差し支えないでしょう。ここに描きこまれているのは社会的な良識や規範からずれていることばかりだからです。ただ、大きくずれているわけではないというのがこの小説の特徴であり、また美点でもあるといえます。

最初から最後までそれなりに楽しく読めましたが、個人的には、少し後に発表された同じ書き手のもう一つの短編『巡礼』のほうが気に入りました。これは『もう「はい」としか言えない』のスピンオフ作品で、いわゆる「聖地巡礼」をネタに、思い切りふざけ倒す書きぶりが大変愉快でした。

「純粋」な小説:北条裕子『美しい顔』

北条裕子『美しい顔』は本年度の群像新人文学賞受賞作で、すべての選考委員からちょっと珍しいほどの大絶賛を受けている小説です。ですが、私にはこの小説の良さがまるで分かりませんでした。登場人物の感情や感覚も、広がる景色も、マスコミへの批判や懐疑も、物語の展開も、そして文体さえも、『美しい顔』にみられるあらゆる側面は私にとって既知の範疇に属しており、そのことが自分の否定的な感想につながったのだと思います。

震災を真正面から取りあげたこの小説がいうように、仮に非常時のマスコミというものが「苦しみと希望」のような出来合いのけなげな物語を求め、取材し、提供するものだとすれば、この小説は非常時には「苦しみの中から憎しみ」が生まれるというやはり出来合いの物語を求め、取材し、提供しているに過ぎないように思えます。マスコミの提供する物語は真実ではない、という至極当然な事実へのカウンターとして、被災者の真実のありようを提供しようと振る舞っているように映るこの小説のあまりのナイーブさ、つまりは「純粋」さに、それが極めて高く評価された現実に、率直にいって私は驚きました。

もし『美しい顔』を好意的に捉えようとするならば、震災について衒わずに書くという果敢な挑戦(この点はきちんと評価したいと思います)を書き手が表現のうえでも実践するために、あえてお仕着せの物語にした、と考えることも可能ではあります。しかし、そうだとしても、いとうせいこう『想像ラジオ』のような文字通り想像力をふり絞って考えぬかれた渾身の震災文学には到底及ばないと感じました。

 (2018年七夕)

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