第158回芥川賞

石井遊佳「百年泥」

 後述の「おらおら」より個人的にはおもしろく読めました。

 こうではなかった、こうではない、こうはなりえない、「これ」以外の可能性をぜんぶ泥に託し、そこに自分も他者も塗れて区別がなくなってしまう、「今」よりも圧倒的に広く深く遠く豊かなその泥が、母の沈黙、語り手の沈黙、クラスメイトの沈黙に、つまりは言葉以外の、以前の、以後の何かに呼応するものとしてグロテスクに可視化されたものと思えば、「百年泥」は言語芸術たる小説の可能性に挑んだ意欲作として讃えたくなります。

若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

 総じて瑕疵の少ない、極めて完成度の高い小説だと思いました。が、小説になりすぎているようにも思いました。一読すれば、これがどういう小説であったのかを直ちに説明できてしまう、そういう意味で、既視感が強かったです。

 「方言と(いわゆる)標準語」という「おらおら」を構成する言語の二層は「故郷と東京」「内面と皮相」「無意識と意識」といった二項対立の数々へと容易にスライドさせることができます。そうすると、ツルツルすぎて、手応えが感じられません。おまけに、標準語はもとより、ざらざらとした感触を残すべき方言も語り手によって完璧にコントロールされており、言葉が鉄砲水のように迸る箇所でさえ、実は破綻しているのではなく、破綻を巧みに装っているようにしかみえませんでした。また、風景が語り手の心理を説明しすぎるきらいがあるところも気になりました。要は、すべてを意味化しようとする作者の手を小うるさく感じてしまうのです。

 ただ、この小説を宮沢賢治とのゆるやかな連続性のうちに含めて読めば、非常におもしろい景色が立ちあがると思います。

 タイトルが「永訣の朝」の一節から採られているように、この小説は賢治作品と非常に近しい関係にあるといえます。「虔十公園林」からの明示的引用もあります。したがって、桃子の体内で声をあげる柔毛の一群の描写が「風の又三郎」の「すすきの穂」の風にたなびく様子を連想させるといっても、必ずしも牽強付会とはいえないでしょう。

風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん。」なんて言っているようでした。

宮沢賢治「風の又三郎」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html

 人―動物―植物との境界が融けだしたようなこうした賢治の自由世界、あえて分かりやすくいえばアニミズム的世界が、様々な声を(死者の声さえ)自身の内に反響させる桃子という一個の人格の内部に展がっている、そう読むことができます。それは「虔十公園林」を宝物のような物語と思う彼女の内面世界にまさに相応しいといえるでしょう。このように読むかぎりで、「おらおら」はおもしろいと思います。

 (2018年2月14日)

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