ヤコフ・ドゥルースキン

上:1930年代、下:1940年代のドゥルースキン
上:1930年代、下:1940年代のドゥルースキン

 ヤコフ・ドゥルースキン略歴

 ヤコフ・セミョーノヴィチ・ドゥルースキン(1902-1980)は、モスクワから約1000キロメートル南下したロシア南部の都市ロストフ・ナ・ドヌーに生まれました。彼の父は開業医で、大シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)のユダヤ人小学校に付設されていた管理会のメンバーでもありました。

 

ドゥルースキンはペテルブルグのレントフスカヤ名称ギムナジウム(*)で学んでいますが、同じ学校の下級生にリパフスキーとヴヴェジェンスキーがいました。彼らは固い友情で結ばれ、「チナリ」というサークルを組織することになります。

 

 

ドゥルースキンは1919年にギムナジウムを卒業すると、ペトログラード大学哲学部に入学、1923年にそこを卒業しました。

(*…●●名称ギムナジウム/大学という学校名は日本人には聞き慣れませんが、ロシアではこれが一般的です。ロシアで最も有名な大学であるモスクワ大学も、正式名称は「ロモノーソフ名称モスクワ国立大学」といいます。レントフスカヤもロモノーソフも人名であり、とりわけロモノーソフはモスクワ大学を創立した大学者です。)

 

ロシア語ロシア文学の教師として働いていたドゥルースキンは、やがて数学を学ぶために夜間学校や職業訓練学校に通うようになります。1929年には音楽学校のピアノ科を校外生として卒業、1938年には理数学部(字義通りに訳せば数学部)をやはり校外生として卒業します。生涯独身を貫き、子どもはもうけませんでした。

ドゥルースキンとリパフスキー夫人。ツァールスコエ・セロー。1970年代。
ドゥルースキンとリパフスキー夫人。ツァールスコエ・セロー。1970年代

 1925年、「チナリ」にハルムスが参加、少し遅れてザボロツキーとオレイニコフも加わりました。この仲間たちが中心となって1927年秋に「オベリウ」というグループが結成されます。1931年にハルムスとヴヴェジェンスキーは逮捕され流刑の憂き目にあいますが、ドゥルースキンはレニングラードにとどまりました。

 

彼らが帰還すると、「チナリ」のメンバーは度々集まって哲学などについて会話を重ねました。その記録はリパフスキーが『会話集』として書きとめておいてくれたおかげで、今でも読むことができます。

 

戦争が始まると、ハルムス、オレイニコフ、ヴヴェジェンスキー、ザボロツキーは逮捕されてしまいます。ドゥルースキンは封鎖されたレニングラードに残されました。戦下のレニングラードで彼はハルムスの妻マリーナ・マリチと出会い、小さなトランクを託されます。そこには、ハルムスとヴヴェジェンスキーやその仲間たちの手稿が収められていました。

 

ドゥルースキンはそれを戦争のあいだずっと守り通し、20年の長きにわたり、トランクの主の帰還を待って保管しつづけました。しかしハルムスの死がもはや動かしようのない事実となった1960年代、ついにドゥルースキンはそれを地下出版で、それから国外で出版しはじめます。

 

ドゥルースキン自身も仲間たちの思い出や創作について綴ったエッセイ『チナリ』を雑誌に発表し、またヴヴェジェンスキーの創作について研究した『無意味の星』を執筆しました。1928年から亡くなる前年の1979年までの出来事をしたためた日記は、1999年と2001年にロシアで刊行され(上下2冊)、いまや誰でも読むことができます。

 

また、彼は哲学や神学に関する論文・エッセイを多く書いていました。音楽研究にも精力的に取り組み、それについての論文や翻訳に従事しています。

そして、1980年、レニングラードでその長い生涯を閉じました。

 

★本頁の大部分は、リンクの末尾に掲載しているハルムス研究サイトのドゥルースキンに関するページに基づいています。

 

(2014年12月31日)