ハルムスについて

1930年代のハルムス。ホームズばりにパイプをくわえている有名な写真。
1930年代のハルムス。

 ダニイル・ハルムス(1905~1942)略歴

ハルムス(本名ダニイル・イヴァノヴィチ・ユヴァチョフ)は、1905年にサンクト・ペテルブルグで生まれました。彼の母親ナジェージダ・イヴァノヴナ・コリュバキナは教育者であり、刑期を終えた人々を養育する仕事に従事していました。

 

ハルムスの父親イヴァン・パーヴロヴィチ・ユヴァチョフは、極めて興味深い人物です。彼は1860年にサンクト・ペテルブルグのあまり裕福でない家庭に生まれました。1882年、黒海の港湾都市ニコラーエフですでに働いていたユヴァチョフは、革命グループ「人民の意志」派に入ります。しかし翌年彼は逮捕され、シュリッセルブルグ要塞に送られてしまいます。そこで彼は急進的な革命家から、信心深い宗教的な人間へと変貌をとげるのです。

 

その後ユヴァチョフはサハリンへと流され、当時そこへ視察に訪れていたチェーホフの知遇を得ます。チェーホフは『サハリン島』のなかで次のようにユヴァチョフを表現しています。「驚くほど仕事熱心で善良な人物」。世紀末にユヴァチョフはサンクト・ペテルブルグへ帰還しました。彼は「ミロリューボフ」という筆名(「平和」と「愛」からなる筆名)でサハリンに関する本を出版しています。1902年、ユヴァチョフは未来の妻ナジェージダと知り合います。そして1905年、ダニイルが誕生したのです。

 

1912年頃のダニイル(ハルムス)。
1912年頃のダニイル(ハルムス)

 

ハルムスは1924年頃から自作の詩や他の作家の詩を様々な場所で朗読するパフォーマンスをおこなうなど、文学への関心を高めていました。翌年、ハルムスはアレクサンドル・トゥファーノフという未来派の詩人と出会い、彼の創設した文学結社に参加、中心的メンバーとして活躍するようになります。この頃のハルムスは、未来派の考案したザーウミという超-理知的な言語(私たちの普段用いている言語とは別の言語、たとえば新造語など)を用いて詩作をおこなっていました。

 

しかし、彼はやがてトゥファーノフの結社からは距離をおくようになり、いくつかの文学グループの結成と解散を経て、仲間とともに「オベリウ」というグループを立ち上げます。

 

1928年1月、そのオベリウは出版会館で「左翼の三時間」というパフォーマンスを繰りひろげます。その演目の一つ『エリザヴェータ・バーム』はハルムスの書きおろした芝居で、非論理的な性格が際立っていました。しかし、1930年におこなわれたオベリウの夕べを批判する論文が契機となり、オベリウは早くも解散に追いこまれてしまいます。そして翌1931年12月、ハルムスは逮捕されます。

 

流刑を経て戻ってきたハルムスは、児童文学の仕事に従事します。既に1920年代末より彼はこの仕事を始めており、そもそも逮捕の理由は児童文学の分野における執筆活動だったと言われますが、1930年代にはこれが糊口を凌ぐ手段となっており、ハルムスは多くの児童文学を書いています。主に『ハリネズミ』と『マヒワ』という児童雑誌に掲載されたハルムスの作品は、現在に至っても子供たちから人気があるようです。しかし、この仕事はハルムスとその妻マリヤ・マリッチの生活を支えていくには、薄給に過ぎました。1930年代、ハルムス夫妻は貧困に苦しんでいたことが知られており、とりわけ1937年には窮乏を極めていたようです。

 

1941年、ハルムスは再び逮捕されます。
そして今度は二度と戻らず、翌1942年、監獄病院で死去しました。

 

1930年代のハルムス。
1930年代のハルムス

ハルムスの作品は、児童文学を除けば生前にはほとんど出版されることがありませんでしたが、彼は「机の引き出し」に多くの作品を書きためていました。それらの草稿や日記、手紙といったものは、ドゥルースキンというハルムスの友人が戦火から守りぬき、のちに密かに出版されることになります。1925年にハルムスはこの友人と知り合いましま。彼らは、ヴヴェジェンスキーオレイニコフリパフスキーらとともに「チナリ」というサークルを結成し、1930年代には定期的に会合を開いていました。

 

ドゥルースキンはハルムス逮捕のあと、彼の帰還を信じて作品を保管し続けますが、やがて彼の死が明らかになると、それを地下出版で広め始めます。次第にそれは国内外の研究者の注目を集めるようになり、1988年には遂に『天空飛行』というハルムスの作品集がレニングラードで出版されるまでになります。1997年にはハルムス全集が刊行、それ以降も続々と彼の作品集はロシアで出版されており、国外への翻訳も盛んに行われています。日本でも、かなり早い時期にハルムスは紹介されていましたが、2010年に一挙にその翻訳が出ることになり、ようやく多くの人たちの目に留まるようになりました。