ニコライ・ザボロツキー

1929年のザボロツキー
1929年のザボロツキー

ニコライ・ザボロツキー略歴

モスクワから800キロメートルばかり東に位置する都市カザン近くの農村にて、ニコライ・アレクセーヴィチ・ザボロツキー(1904-1958)は農学者だった父と村の教師だった母とのあいだに生まれました。大家族の長男だった彼は、この農村=ウルジューム郡セールヌル村の大自然のなかで幼年時代を過ごしました。

 

ザボロツキーが詩作をはじめたのはかなり早い時期のことで、まだ村の学校に通っていた1919年に、手書きの詩集『ウルジューム』を完成させています。

1920年に学校を卒業したザボロツキーは勉学をつづけるためにモスクワへ行き、市内の大学の薬学部に入学しますが、まもなくそこでの勉強は切りあげて、ペトログラードへ出立します。そしてゲルツェン名称教育大学の言語文学科に入学、ここに在籍することになりました。大学内の文学グループ「巨匠の言葉」に参加した彼は詩を書きつづけました。しかし学生時代は貧しく、食うや食わずやの生活を送っていたといいます。1925年、それでも彼は無事に大学を卒業しますが、翌年には軍隊に徴兵されてしまいます。

 

1927年まで兵役を務めたザボロツキーは、その間も詩を書きつづけていました。やがてそれは『詩柱』という本となって世に出ることになります(1929年)。

1927年末に彼は「オベリウ」に参加、そのマニフェストの大部分を執筆しています。彼はオベリウの夕べ「左翼の三時間」では『運動』という詩を朗読しました。これはしばしば彼自身の「裸の眼」という用語=概念を実践したものだと評されます。つまり、ありのままの現実を見つめようとする子供の眼、あるいは無垢の眼を志向する姿勢が如実に表れているというのです。

 

児童文学作家のマルシャークは、そんな「子供の眼」に着目して、オベリウのメンバーを自分たちの仕事に引き入れようとします。ジトコフ(著名な児童文学作家)やオレイニコフの誘いをうけ、ザボロツキーやハルムス、ヴヴェジェンスキーは児童文学の仕事に着手するようになりました。1928年から1929年にかけ、ザボロツキーは児童向けの雑誌『ハリネズミ』に詩や散文を発表しています。

 

1927年頃からは大人向けの詩も少しずつ雑誌に掲載されるようになっていたザボロツキーは、ついに1929年初頭、詩集『詩柱』を出します。ネップ(当時のロシアの新経済政策)の末期を風刺的に描写したこの22編の詩は、文学界に大きな反響を呼びおこし、その書評は新聞紙面を飾りました。

ニキータ・ザボロツキー『ザボロツキーの生涯』モスクワ、1998年。
ニキータ・ザボロツキー『ザボロツキーの生涯』モスクワ、1998年。

 

1930年にはエカテリーナと結婚、息子ニキータと娘ナターリヤが生まれました。このニキータは、後に父ニコライ・ザボロツキーの大部の伝記を書くことになります。

 

フョードロフやヴェルナツキー、ツィオルコフスキーといった人々の自然哲学思想(死者の復活や光合成をおこなう人間など、人間の生物学的進化を説いた)に傾倒していったザボロツキーは、『農業の勝利』(1929-1930年)という長詩を書きあげ、雑誌『星』に掲載します。自然、動物、人間たちの共生を謳ったこの一大叙事詩は、しかし激しく批判され、次第に彼が作品を発表する場は奪われてゆきます。それでも彼は子ども向けの作品を書きつづけ、また精力的に翻訳をしました。

彼は詩人としてだけではなく、翻訳家としてもよく知られています(とりわけグルジアの詩人の翻訳は有名)。また、1930年代前半には、この『農業の勝利』のほかに、『気狂い狼』(1931年)と『木々』(1933年)という長詩を書いています。

 

1938年3月19日、ザボロツキーは「反ソビエト的プロパガンダ」をおこなった廉で逮捕され、ラーゲリ(強制労働収容所)に送られます。ようやく1945年に釈放されましたが、モスクワでの居住が許されたのはさらにその一年後のことでした。この年、彼は「作家同盟」に復帰します。

 

それからというものザボロツキーは翻訳と詩作に励みますが、彼の創作は逮捕される以前のものとは大きく特徴が異なっていました。書かれている内容がより明瞭に(分かりやすく)なっていたのです。「ザボロツキーは長く複雑な進化を経てきたのだ」と、著名な文芸批評家のユーリー・ロトマンは評しています。1946年から1948年のあいだに書かれた詩は同時代の文学史家から高く評価され、1948年には詩集を出版します。

上:『ザボロツキー著作集』モスクワ、1983-1984年。下:『ザボロツキー翻訳詩集』モスクワ、2004年。

 

その後しばらくは翻訳に熱中していましたが、1957年には自身4冊目の詩集が刊行されます。しかし、監獄やラーゲリで痛めつけられていた体はついに悲鳴をあげ、1958年10月14日、ザボロツキーは死去しました。彼の遺体は、チェーホフやフレーブニコフ、ショスタコーヴィチなど多くの芸術家たちが眠るノヴォデヴィチ修道院(モスクワ)に埋葬されています。

(2015年1月3日)